「明智光秀は生きていた!?」 定説では秀吉軍との「山崎の戦い」に敗れ、敗走の途中で亡くなったとされる光秀ですが
今なお、一般の歴史・戦国好きのみならず研究者や歴史家の間でも
「光秀生存説」が議論され、様々な検証がなされています。
今回は、ビール好きお仲間きっての歴史マスターである
ゲンジさんと
にわか戦国ファン代表のワタクシが、その真偽を確かめるべく
様々な伝説が眠る、美濃の国(現在の岐阜県美濃地方)へ行って参りました。
(NAVITIMEの検索画面より抜粋) まずは、中濃エリアにある明智城跡を目指し車を走らせます。
5時頃ゲンジさんに自宅まで迎えに来て頂いたので、大変助かりました。
7:50 明智城跡 駐車場 到着辿り着くのに路地のような細い道を通らなければなりませんが、
駐車場は、ラクに10台近くは停めれそうな広さがあります。
明智城は光秀が生まれ、落城するまでのおよそ30年間を過ごしたとされ
主君
斎藤道三を、長良川の戦いで討った息子
斎藤義龍の総攻撃を受けて
弘治2年(1556年)光秀の叔父、
光安が城主の時に落城したと言われています。
まずは、設置してある資料パンフレットで情報収集に努めます。
おおおっ、お宝ゲット(笑)
ほほう、すぐ近くに光秀公
「産湯の井戸跡」なる史跡があるようなので
まずは、そこから訪れることに致しましょう。
マップの方向に農道を5分ほど歩くと、前方にいわくありげな巨木と幟が見えてきました。
産湯の井戸跡はココに間違いないっ!
・・・と勢い込んで覗き込んだのですが
どうやらもう明確な痕跡は残っておらず・・・・・
「たぶん、このへんです」的な説明文と見取り図が書いてある小さな立看板があるだけでした。
う~むっ・・・・超盛り上がっていた戦国気分に
いきなり水を差された感じは否めませんが(笑)
気を取り直して明智城に戻りましょう。
8:17 攻城開始いやいや、これからが本番ですよっ!
ゆるやかな桔梗坂を登って、まず大手門址へ向かいます。
8:21 大手口跡 通過おおおおっ!コレ、
まさに大河ドラマでも山城のセットで再現されていたヤツ!(*´∀`人 ♪イイネ、イイネ
マップではけっこうな距離があるように見えますが
実際は大手門から5分ほど登ると・・・・・
8:26 山頂広場(本丸跡)到着広場には、これまで見てきた光秀像の中で一番かっちょイイと思われる銅像が
建立されていました。
左手に火縄銃を携えたポーズが銃の名手と言われていた光秀らしさを演出していますね。
(ゲンジさん撮影画像拝借)と、と、殿ぉ~・゚・(つД`)・゚・自害した叔父上、光安殿に明智一族の再興を託されとはいえ・・・・
家族と僅かな従臣とで、ただただ落ち延びざるを得なかった
殿の心境いかばかりかと、お察し申し上げまするぅ~(涙)本丸の南側には、明智城落城の際に戦死した明智方の将7人を葬ったとされる
「七ツ塚」が残されていました。
本丸跡を覆うモミジの葉が、こんなにも真っ赤なのは
城を守るため、ここで幾多の兵士が流した血のせいかも知れませんね。
その後は、展望台に向かいます。
展望台からは、明智氏代々の所領である
明智荘という荘園が
広がっていたと思われるエリアを一望することができます。
・・・・と、ここでゲンジさんが、光秀とは
因縁浅からぬ
森乱丸(蘭丸)の生誕地とされる
美濃金山城を発見っ!
こ、これは・・・・・
一言、文句を言わんと気が済まんっ!(怒゚Д゚)ノということで、後からワタクシ達二人でタップリお礼参りしてやることに決定!(笑)
そうと決まれば、まだまだ寄る所も残っていますので早めに下山開始。
いったん駐車場に戻った後・・・・
すぐ隣の、天龍寺へ。
このお寺には、明智歴代の墓所と
日本一大きな明智光秀の位牌が祀られているとのことですので
大変興味があります。
まずは立派な楓の下に佇む、歴代の墓所を訪ねます。
苔生した仏様や墓石が並んでいますが、長年の風化が進んでおり
どれがだれのお墓か全く判別できませんでした。
ツギはいよいよ日本一大きな位牌を・・・・・
・・・・・んっ!?
あかーーんっ!コレッ!!(つω-`。)光秀公の命日(6月13日)に符合してるという、
6尺1寸3分(約184cm)もある位牌拝んでみたかったなぁ~
まっ、そうはいっても大変見どころの多いエリアでした。滑り出しは上々です。
さあ、ツギのポイントに向けて早籠を走らせましょう(笑)
えっ? 今回は「歩き」ぢゃないのかって!?い、いや・・・この道は、別に光秀の足跡とは何の関係も無いし・・・・
特別な史跡も途中に無いし・・・・・
あとは、えーと・・・・・
だぁーーーっ!も、もういいっ!
毎回毎回、40kmも50kmも歩いてたら
疲れるんぢゃ!
悪かったなっ、更年期なんぢゃ!
ごるらぁ~!(怒゚Д゚)ノ9:48 林酒造 到着・・・・と逆ギレしていたら、いつの間にかツギの目的地に到着(笑)
明治7年(1874年)創業という歴史ある造り酒屋、
林酒造さんです。
光秀公の名を冠した日本酒を販売なさっていると聞きつけ、やってまいりました。
(ゲンジさん撮影画像拝借)おおおっ、確かにありました
清酒「光秀」水色桔梗を思わせる色合いのラベルが、なんともオシャレ。
・・・っと、その横には、また別の生存説に繋がる
「天海」のラベルも・・・・・
そ、そりゃ2本とも買わない訳にいかないでしょう!
商売上手なんだから、もう(笑)
光秀幟旗と記念撮影もさせて頂きました。
ホントは利き酒も楽しみたいところでしたが、日本酒ですと
今日はもう完全に終わりになってしまいますので、しぶしぶ自粛(;´д`)
その後は、いにしえの趣を色濃く残す中山道の御嶽宿を散策しつつ
10:15 願興寺 到着このお寺は、光秀に仕えていた武将、
可児才蔵の生誕地として伝えられています。
武勇に秀でた槍の使い手として知られ、
討ち取った首に笹の葉を含ませていたことから
「笹の才蔵」として名を馳せたそうです。
生憎、今は補修・改装中のようで本殿には入れませんでしたが
敷地内では、
「まるっと願興寺DAY」なるミニイベント?が催されていました。
ふと和やかな雰囲気にそぐわない、殺気に満ちた視線を感じて辺りを見回すと・・・・・
あっ、才蔵さん、いたっ!(◎_◎;)確かに大槍持ってるし・・・笹、担いでるし・・・(笑)
ただ、このまま視線を合わせていると、討ち取られて鼻に笹の葉を差し込まれそうでしたので
慌てて退散しました(;´д`)
10:45 美濃金山城 駐車場到着そして、この中濃エリア最後の目的地、美濃金山城にやってまいり・・・・
・・・いや、
お礼参りに乱入致しました(笑)
というのも、この城で生まれ、城主になったとされる
森乱丸(蘭丸)織田信長の信任を得て身の回りの世話をする小姓として仕えていましたが
光秀の本拠地、近江坂本6万石を欲しいと所望してみたり
光秀が家康の接待役として饗応の最中に、不備があったと怒る信長に成り代わって
鉄扇で光秀の頭をぺシぺシ叩いたとか・・・・・
光秀ファンのワタクシにとって非常に腹立たしい逸話が、
まことしやかに残っているのですよ(*`皿´*)ノ
もちろん真偽のほどは、よく解りませんが
とりあえず、
乱丸のお城に乱入っ!(笑)ただ、攻城するにつれ、気づいたのは
先ほどまで居た明智城を、遥かに超える規模のお城だったようで
石垣の見事さや、その数の多さ、範囲の広さに、ビックリ致しました。
なんとか
乱丸に嫌がらせしてヤロウと、石垣によじ登るワタクシ達(笑)
頂上広場には、本丸の礎石なども残されていました。
本丸からの眺めも素晴らしく、木曽川が流れる兼山の街を一望できました。
その後は、
乱丸産湯の井戸を覗き込んだりしつつ下山します。
しかし・・・産湯の井戸って、誰のでも何処にでも、あるよね(笑)
美濃金山城も、紅葉に彩られたホントに美しいお城でした。
さらに春には千本桜が咲くとのことですので、その時期にも訪れてみたいです。
下山した時点で、時計の針は正午を指そうとしていました。
見どころ盛り沢山の中濃エリアで、ホントに楽しかったですが
光秀の謎は深まるばかり!
さらに時間も、かなり押してきているような気が・・・・・
果たして、ワタクシ達
光秀の真実を掴むことが、できるのでせうか!?
それはまた、ツギのお話・・・・その2に続くちなみに今日の攻城ログです。
まず、最初の明智城跡
ツギが美濃金山城跡です。
いやぁ~、早籠での移動は、
やっぱラクだわ(笑)
スポンサーサイト