
はるか昔より、北陸と近畿を結ぶ重要なルートであった
北国街道(別名:旧北陸道) 現代に繋がる、古の面影を辿りながら、
福井中心部から丹南の今庄宿まで
約42kmのロング・ウォークに行って参りました。
6:00 福井駅 出発 これまでの歴旅と同様、今回もビール好きお仲間であり、
歴史マスターの
ゲンジさんのプランニングにまるまる乗っからせて頂きました(笑)
駅前ロータリーに設置されている恐竜のモニュメントの前からスタート・・・・・
あっ、いやいや!!!
ワタクシは、息子に車で送ってきてもらったので、ここがスタートなのですが
ゲンジさんは自宅から福井駅まで、
すでに5km以上ジョグってきたそうです(◎_◎;)

まずは、福井市の中心部を抜け九十九橋(つくもばし)へ向かいます。
朝早い為か、人も車もほとんどいません。
6:14 九十九橋 到着 ここから北国街道と重なります。
戦国期以来、福井城下の足羽川に架かる唯一の橋だったそうです。
後に、福井市の礎を築いた北ノ庄城主 柴田勝家により
北側半分を木材、南側半分を石材という特殊な工法の橋が造られました。
江戸時代には「半木半石の奇橋」として全国に知られるようになり、
あの葛飾北斎も九十九橋を描いたそうです。
まっ、もちろん現代では4車線の車道と休憩所のある歩道を備えた
鉄筋コンクリートの大きな橋に変わってますけどね。

橋を渡ってすぐの交差点に、
橘曙覧(たちばなのあけみ)の生家跡を示す石碑がありました。
リンクさせて頂いている
FKI-徳さんのブログ「山登りの楽しみ」でもおなじみの
「独楽吟」を詠んだ歌人さんです。

その他にもこのエリアには、
志半ばの26歳で生涯を閉ざされた幕末の志士、橋本左内の墓所がある左内公園や

柴田勝家、お市の方のお墓がある西光寺などなど・・・・
様々な時代の史跡が多く
なかなか南に向かって進めません(笑)

それでもなんとか、日本赤十字病院の辺りまで来ると街道の様子はガラリと変わり
細い路地のような道に。

路傍に掲げられていた案内板によると、昔はこんな感じだったらしいです。
地図に描かれている「八幡山」と北国街道の位置関係は、ほぼほぼ現代と同じですね~
その後は、更に南進し

松尾芭蕉が「奥の細道」の道中で
「月見せよ 玉江の芦を 刈らぬ先」という句を
詠んだとされる「玉江の橋」

ショッピングセンターベル裏、開眼伝説の残る日吉神社

かつては、街道を行き交う旅人の憩いの場所となった
「茶屋」が在ったことを伺わせる「三軒茶屋」の石碑

江戸日本橋から132里に位置し、福井市域では最も南にあったという「荒井一里塚」などを通過し

白壁に大小の柱や構造材を、格子状に浮き出させる
独特の御屋敷が立ち並ぶ麻生津(あそうづ)地区へ。

一階部分と二階をつなぐ、
紋様の入った帯板?のようなものも特徴的です。
あまり福井の他のエリアでは見ないような気もするので、
街道沿い独特の建築様式なのかも知れません。
訂正:「輪違い(和誓い)」と呼ばれる建築手法でした。
また、街道沿いだけでなく県内外の古民家でも見られる様式とのことです。
よっし~師匠っ!教えて頂いてありがとうございましたヽ(´∀`)ノ

他にも江戸時代の宿駅であり、幕府要人・公家・貴族の旅館であった「本陣」の跡地や

東郷・大野方面への分岐点でもあった「あさむつ橋」などが残っていました。
平安時代、清少納言が「枕草子」で取り上げ、
藤原定家や松尾芭蕉も歌を詠んだ名所だそうです。

また御屋敷には、だいたい大きな蔵が有るのですが
その多くが見事な板張りの壁で造られていました。

福井市中心部の街道沿いとは、全く雰囲気が違っています。
とても豊かさと由緒を感じる街並みでした。
今までも何回かは車で通ったことある道なのですが
改めて歩いてみると、見えてなかったものが色々見えてきます。
ウォーキングの醍醐味でもありますね。

さらに進むと、我々ハイカーがスルーする訳には絶対いかない
越前五山、開山の祖である
泰澄大師生誕地、泰澄寺に到着です。

今回は大師堂のみ、お参りさせて頂きました。
以前来た時には無かった、
「あそうず ふるさと かるた」という小さな看板が立てられており
「本尊は 血染めの観音 泰澄寺」なる
なかなか物騒な句が書かれていました(゚д゚|||)

ここまでスタートしてから、およそ2時間ほど経過しましたので
近くのコンビニで、いったん休憩です。

今庄まではまだまだかかりますので、行動食や水分を補充します。
「ガンダム逆襲のシャア」コラボのアーモンドチョコを発見して、迷わず購入(笑)

いったん旧8号線を横切って、再び北国街道へ。

早速、民家の庭先に残る
「一里塚跡」がお出迎え。
間違いなく北国街道が続いています。
10分~10分30秒/kmペースで心拍数は
120bpm台以前カルボーネン法で算出した、
最も脂肪が燃えやすい心拍数にドンピシャ!(*´∀`人 ♪ワタクシにとっては理想のペースなのですが
ゲンジさんに聞くと・・・
100bpmにも届いていないとのこと!
全く負荷にもなっていない状態です。
し、し、しかし・・・・・
「ちょっとペース上げましょうか?」などとは口が裂けても言えないので(笑)
ゲンジさん・・・ここはワタクシのために・・・・
犠牲になってくださいっ!( ー`дー´)キッパリ
あそうず川を渡って、さらに南へ。
この先は鯖江市エリアに入って行きます。

すっかり周りの草木が取り払われて、丸見えとなっている
兜山古墳(現在整備調査中のため立入禁止)

元禄期の古民家が今に残る
旧瓜生家住宅などが続きます。
国の重要文化財に指定されています。

重文でなくても、街道沿いには趣ある建物が多く、このお醤油屋さんなんか雰囲気バツグン。
こういう黒壁の建物って、北国街道の始点に近い滋賀県の長浜辺りに建ち並んでいた覚えがありますので
やはり、街道つながりで何らかの影響が伝わってきているのかも知れません。

街道の前方には、日野山が真っ正面に聳えています。
電柱や電線が無かった昔だったら、さぞかしキレイに見えていたことでしょうね。

水落町の宿場跡や

ほとんど消えかかっていましたが、「北陸道」と記された石碑なども残されていました。

緩やかなカーブと僅かなアップダウンが繰り返す古の街道は、
現代のような一直線の道と違って、歩いていてなんとも優しい気持ちになってきます。

街道からずいぶん奥まった場所で、かつ人目を避けるように
後ろ向きに建てられている祠もありました。
天正2年(1574)の一向一揆の際に焼失した長泉寺の経典を埋めた塚で
歯塚大権現と呼ばれており、祈願するとなぜか歯の痛みが癒えるそうです。
また朝倉氏滅亡後、府中(武生)城主となったものの一向一揆勢との戦いの途中で
味方の寝返りによって24歳で戦死した富田長繁の供養塔もあります。

こんな感じで、山肌との狭いすき間に入り込んでお祈りせねばならず
なぜ、こんな建て方をしなければならなかったのか、謎です。

西山公園方面に向かう道路との交差点近くには
橋地蔵尊がありました。
織田信長が一乗谷の朝倉氏を攻めた時、近隣の寺は焼き払われ
多くの石仏が谷や川に投げ捨てられたそうです。
後年、夢のお告げを受けた長泉寺の僧が、それらの石仏を拾い集め
北陸道の小川の橋として並べたことが
橋地蔵の謂れとなったとのことです。

う~むっ、確かに行き来する沢山の人に踏まれて
平らに擦り減ったような形になってますな~

さて、その後は鯖江市中心部に進みます。
今まで郊外のバイパス道路や旧8号線を通るのがほとんどだったので
北国街道が通る中心部がこんな風になってるって全然知りませんでした。
電線が地中に埋め込まれているのか、電柱も無く、とってもスッキリした町並みです。

ただ古い家屋や寺社もたくさん残っており、これまでの街道沿い以上に歴史を感じることができます。

なかでも誠照寺はとても大きく立派で
(ゲンジさん撮影画像拝借)お寺に入る手前の、門だけでこの大きさっ!(◎_◎;)

しかも、門の四支柱には、今にも動き出しそうな彫刻が施されており
この龍など、昔の火災の際には水を吐き、火の勢いを止め寺を守ったという逸話が残っています。
伝説の彫刻師、左甚五郎の作ともいわれ、それが現実味を帯びるほど生き生きと彫られていますね~

さらに古町のアーケードを通り、中心部を抜けて鯖江市の郊外へ。

だいぶ日も高くなり、気温は22度まで上昇。
日射しもありますが、カラっと湿度が低いので、
歩いていても汗ばむことが無く、とても爽やかです。

日野川に架かる白鬼女橋の袂に祠があり、
「白鬼女観世音菩薩」が祀られています。
この付近は北国街道が日野川を渡っていた唯一の場所で、
江戸時代までは橋が無く渡し舟で川を横断していたそうです。
「白鬼女」の名は、鬼ヶ岳に棲んで悪さをしていた鬼の家族を
麓の村人が退治した際、母鬼がこの辺りまで追われ討ち取られたという言い伝えに
由来しているのかと思っていましたが、設置されていた案内板によると
継体天皇に関わりのある説の方を強く推していました。
まっ、謎だからこそ、ロマンということで(笑)
さあ、この橋を渡れば
い、いや・・・渡ってる途中で越前市(武生市)に入ります。
福井駅をスタートして、約4時間。
道中の約半分くらいを過ぎたところでしょうか。
沢山の見どころがあり、ここまでは思ったより早く感じましたが
ここから先、今庄までは・・・・・・
まだまだ、残ってるよね~(泣)その2につづく。(=゚ω゚)ノ
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